ゲンの部屋に泊まりに行くと、お風呂上がりに彼がいつもドライヤーを準備して待っている。
最初の頃はそれこそ遠慮しまくっていたが、途中から考えるのをやめた。私が学業の合間に稼ぐバイト代なんかじゃ到底手が出せない高性能なドライヤーを見るたびに、同い年の筈がこんなにも違うゲンと自分の差を見せられてるような気がしていた。それでもゲンが毎回心底嬉しそうに手招きするから、私は彼の脚の間に座るしかないのだ。
「一週間お疲れちゃん」
「ん、やっとお休み……」
「いや〜頑張ったね、ジーマーで」
たかだか学生のバイト。とはいえ怒涛の七連勤を終えて渇ききった砂漠みたいになってしまった頭ではいつもみたいに会話するのも難しい。
ゲンがドライヤーのスイッチを入れたので、喋ろうとした口を閉じた。こんな力の抜けた声じゃ、聞き上手な彼も流石に聞き取りづらいだろうから。
髪を乾かしている間、ゲンは色々な話を聞かせてくれる。仕事の話だったり、美味しかった食べ物や買った服の話だったり、その時によって様々だ。温かな風と髪をすく指の感触、それに加えて普段より幾分円やかなゲンの声が心地よくて、今にも眠ってしまいそうになる。
「……ねえ。ゲンは、」
「んー?」
「ううん、ゲンも一日お疲れ様」
微かな声を拾われて、誤魔化した。
ゲンは私と一緒にいて楽しいんだろうか。やっぱり、ゲンはもっとこう輝いてるというか、可愛くて前向きでちゃんとした子が良いんじゃないかと思うのだ。例えばこの前のテレビ番組で、彼の隣に座って笑ってたモデルさんみたいな。
彼を困らせるだけの弱音が浮かんでしまうことが、たまにある。さっきまでパワー全開だった風の勢いが弱まって、もしかして気付かれてしまったかもしれないと不安が過った。
「ゲン、上手だよね乾かすの。本物の美容師さんみたい」
「実際よくやってもらっちゃったりするからね〜だからある意味プロの技よ?コレ。まあ見よう見まねだけども」
忘れよう。ただ私が疲れてるだけだ。だからこんな後ろ向きな考えが出て来てしまう。風が弱まったのを良いことに、ゲンとのお喋りで気を紛らわすことにした。
「器用だね、ほんとに」
実は、似たような弱音を一度だけ彼にぶつけてしまっている。
本当に私なんかで良いの、ゲンにはもっと相応しい人がいるでしょう。自暴自棄になった時に口をついて出たのがそんな言葉だった。
愛想を尽かされてもおかしくはなかった。でも、ゲンの反応は私の予想だにしないものだった。
いつも笑ってるゲンがボロボロ涙をこぼす姿があまりに衝撃的で、慌てて彼の顔を拭いて宥めたのを昨日のことのように覚えている。
次そういうこと言ったらもっと泣いて名前ちゃんのこと困らせるからと釘まで刺されて、自分のしでかしたことの重大さに気付いた。自分に自信なんて更々ない。だけど、もう絶対にゲンを悲しませたりしたくないと、私はその時確かに感じていた。
温かかった風が今度は少し冷たくなる。首筋にそれが当たるのがこそばゆい。
「俺さ、ドライヤー止める直前くらいの髪が好きなんだよね」
「それは、どういう……?」
「ん〜まだ温かくてフワフワモフモフな感じ?」
「サラサラじゃなくてモフモフ」
「そ、モフモフ」
犬じゃないんだから。自分以外の人の髪なんて触る機会も多くないけど、そういうものだろうか。髪質なのか、はたまた使用してるシャンプーリンスの賜物なのか。深く考えたところでゲン本人の感覚は分からない。言葉通り、ゲンの手はさっきからずっと私の髪をくるくると弄ったり撫でたりと忙しなく、その感触を大いに楽しんでいるようだ。
「大好きな名前ちゃんが家に来てくれたら、そりゃもうやるっきゃないでしょ」
俺が好きでやってるから。ゲンはよくこういう物言いをする。相手に引け目を感じさせない彼のやり方なんだろう。そう言われてしまったらもう「でも悪いよ」が通用しなくなってしまう。
「だからね名前ちゃん、俺以外に触らせたらダメだよ。……ハイ、おしまい」
ゲンはスイッチを切ったドライヤーと櫛を持ち替えて、最後の仕上げをしてくれた。
「ありがとう。その、勿体ないな、寝るのが……」
「大丈夫大丈夫、だっていつも直してあげてるじゃない」
「そうだけど」
そうだけどそうじゃない。せっかく泊まりに来たのにもう夜も遅くて、貴重な時間をゆっくり過ごす間もなく後は眠るだけなんて。
「ほらもう早速おねむになっちゃってるよ」
「やだ」
「やだじゃないの。カワイイけど」
「私だって大好きだもん、ゲンのこと」
「………………や、それはずるくない?」
小さい子をあやすみたいに私の髪を弄り続けてたゲンの手が止まった。
「ゲンは、髪だけで良い?さわるの」
「ちょ、待って待って」
さっき密かに抱いてしまった劣等感が消えた訳じゃない。だけど、今夜はいつもより少しだけ素直になれるような気がしていた。
そろそろ、振り返ってみても良いだろうか。
2021.3.28
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